
また楽譜もいただきました。楽譜はこちら。
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ドイツにも鳳鳴の名は轟く!?/小棚木 政之(鳳鳴38期)
母校と友好提携している、兵庫県立篠山鳳鳴高校OBの桑形広司さん(京都薬科大学助教授)からドイツ南西部・フライブルクの街で偶然見つけた「鳳鳴」の看板の画像を送っていただきましたのでご紹介いたします。![]() 中国の都市では街に入る門に「鳳鳴」と書かれた額があると聞きますが、中華料理店の名前にするような意味なのでしょうか。目出たい言葉というのは分かるのですが…。 このコーナーでは、あなたの周りにある「鳳鳴」を募集しています。そんなにあるものではないと思いますが…。 桑形先生ありがとうございました。 |
| 鳳鳴会の会合で那須の御用邸近くのお菓子屋に「鳳鳴」というお菓子があると聞き掲示板で紹介したところ、29期の田村(多久)裕子さんから何と実物を送って頂きました。
母校のスクールカラーを彷佛させるえんじ色のパッケージに鳳凰、そして菊花紋を挟む「鳳鳴」の文字。これは久々のヒットです。製造販売しているのは、那須御用邸御用達の「扇屋総本店」さん。(栃木県那須町湯本200 TEL.0287-76-2735)説明は特に必要ないと思いますが、中の栞によると…「夜明けの朝もやを突き抜けた光が みどりの木立に差し込むころ 野鳥の声がしじまを飛ぶ …やがて大地が目ざめると ひときわ静寂な御用の森では、鶯が遅れた那須の季(とき)をかなでる みやびなその響きは 気高き森にまぼろしの鳳凰を彷佛とさせ 夢の郷へと誘われる −このありさまは御用の森の「鶯鳴(おうめい)」と呼ばれる 高貴・優雅で縁起の良い鳳凰にちなみ 菓名「鳳鳴」と名付けました (以下略)」とあります。
割ってみると中には栗が1個入っていますが、周りは和三盆とはいえそのままでは甘いので、やはりお茶菓子(しかも高級な抹茶など)として頂くのが良さそうです。 田村さん、本当にありがとうございました。なお、お店の前には「鳳鳴」と大書きした暖簾があるそうですからやはり行ってみたいですね。 |
| 伝説のステステ節について、非常にリアルな証言が届きましたのでご紹介します。
すてすて節について拝読いたしました。24期工藤真範先輩、26期辻美代子さんが書かれているとおりです。辻さんは3年生の時同級生でしたし(なつかしや)、工藤先輩は私達が1年生の時の3年生でラグビー部のキャプテンでし た。・・先輩!!お久しぶりでした。ラグビー部でお世話になりました松下です。お元気なご様子で何よりです。 鳳鳴祭の前夜祭で田村先輩と披露されたあのぐりぐりソング、我々の間では今なお語り継がれ、歌い継がれております。 「好きだってことはだねえ、なかなか言えないもんだよ、今日もまたまた言いそびれ、ひとり下宿に寂しく帰り、彼女の写真に顔うずめ、ハッ、つよーくつよく、つよーくつよく、グーリグリ、グーリグリ、グーリグリのグーリグリ、(グリグリ繰り返す)。はあーっ、禿げ山の禿げ鷹が、私を少しかじったかーら、ハシシ、ハシシ、ハシシをあげたーのーさー、オーッ」というものです。メロディーもありますがオリジナルなので聞くしかありません。 高校生の切ない恋心が見事に表されていると思いますが、「禿げ山の禿げ鷹」「ハシシ」が何を表すものか、関係各位のコメントをお待ちしております。また振り付き、歌付きのビデオを送っていただければ後世に残したいと思います。 |
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毎年この時期になると話題になる話ですが、群馬県のnomotoさんから以下のようなメールを頂きました。良かったような、悲しいような…。nomotoさん、メールありがとうございました。両校が一日も早く出場できるよう願っております。 私は群馬県立太田高等学校の昭和61年度応援団長だったものです。 さて、このホームページの中に「創立100年でいまだ甲子園に出場していないのは、鳳鳴高校だけ」という趣旨の文章がありましたが、そんなことは全くありません。 私の母校、太田高校は明治30年(1897)に学校創立、明治33年(1900)に野球部創部と大変歴史のある学校ですが、旧制太田中学・太田高校を含め未だ甲子園に出場していません。群馬県内でも同時に学校を創立した富岡高校(旧制富岡中学)・藤岡高校(旧制藤岡中学)・沼田高校(旧制沼田中学)も未だ出場していません。このように旧制中学時代から100年近く経過した甲子園未出場は全国に50校以上あるはずです。(東北地方でも福島高校や安積高校・古川高校・角田高校も甲子園に出場していません) 今年の大館鳳鳴高校野球部は秋田県内でも力があるようですので、ぜひ悲願の甲子園出場を目指してがんばってください。太田高校もがんばります。 |
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戦前の学制に基づく、旧制高校は一本の白線を帽子に着けていましたが、これは旧制一高に始まるものと言われ、その後全国の旧制高校が採用したものです。また旧制中学でも一高にあやかり、二本線の白線を着けだし、それが全国の旧制中学に広まったもので、大中は昭和元年に採用しております。なお戦後の学制改革では、新制中学が旧制中学の白線を全国的に採り入れたものです。因みに昭和元年に大中が制度として始めたものは、 1. 帽子に白線を着ける 小生の在学中は、帽子着用が義務づけられていいましたが、その後着用しなくてもよしとなった由。 その後春日さんに詳細についてお伺いしたところ、私が思っていたバンカラ鳳鳴のイメージはごく一部のものであったことが判明しましたので、併せてご紹介します。 ※「敬礼」とは号令で、それに従う所作が「挙手注目の礼」です。更に「最敬礼」とは、脱帽の上、腰を45度に前屈して表礼すること。 A. 帽子を破ったり、靴墨を塗ったりする者も極く少数おりましたが、泥を掛けたり予選会で汚物や腐敗したものを投げつける等の品性を疑う様な行為は断じてありませんでした。下駄履きは届け出すればOKでした。 母校が質実共に復活することを願ってやみません。春日さん、ありがとうございました。(小棚木) |
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私達38期には伝説的なO君という男がいます。(彼の人格保護のため仮名とします) まさか、と思ったのですが「その弐」を聞きたいというリクエストがありましたので、再びの登場です。 O君はとても気合いが入っています。彼は館工の生徒がつっぱり(既に死語ですね)よろしくガニマタで自転車を漕いでいた頃、何と三輪車で鳳鳴に来ていました。三輪車といっても子供が乗る奴じゃなく、かつておばさんが買物にいくときに乗っていたアレです。彼の所有物か盗品かは不明です。(彼はバス停などにあるコカ・コーラのベンチを〜結構重い〜盗んだ男ですから) 私とO君は同じ選択科目(一番簡単そうな「生物」だったと思う)を履修していましたが、お互い勉強が嫌いでした。でも私は遅刻したことなどなく、授業も聞かず窓の外を眺めていました。そこに堂々と三輪車に乗った「奴」がいました。私は一瞬我が目を疑いました。バンカラの残党やつっぱりなど傍目から見て格好の悪い人はいましたが、取りあえず格好を気にする年頃じゃないですか。そこに何の臆面もなく「奴」はやってきたのです。 事態はそれだけに留まらず、ボタ雪の降る日でも彼は自転車で登校しました。タイヤに雪が絡み付いてとても走れるものではありません。問題は「帰り」にあります。彼の家は鳳鳴がある台地の下にありました。つまり雪の坂道を下る訳です。 私は彼に問いました。「坂だと滑って危ないだろう、止まる時はどうすんだ!?」彼はためらうこともなく「決まってるべ。電柱さぶつかりながら降りでいぐのや!」とぶっ放し、ニヤっと笑みを浮かべました。その口元の前歯は欠けていました。そう、彼はR部のキャプテンだったのです。(続く) 続きが気になる貴方は小棚木までメールを今すぐ!。 |
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校門前の「赤い石」についての謎がいとも簡単に解けてしまいました。結局つまらない「石」だったのですが、石田さんからのメールをご紹介します。
人生こんなもんですね。トホホ。景品のアイス代が浮いてしまったので、黄色と黒のペンキでも買って密かにゼブラ模様にしておこうかな。(小) |
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※少し”ヤキ”を入れてあります
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![]() 制服のボタンの裏新旧 |
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あれを見てはっきりしました。あの平成3年卒分を書いたのは、まぎれもなく私です。当時、一番後ろの席を陣取っていた私は、友達と以前の名簿を発見して今年も、と書いたのでした。本当なら受験勉強で忙しい時期なのに、授業そっちのけで授業中に書いたのでした。それがあんなにはっきりのこっているなんて・・・。うーん、先生方や、後輩の皆さんには感謝するしかないですね(笑) 最後の大掃除の時にも、みんなで消さないで残そうと先生の目を盗みましたが・・・。名簿や落書きが残っているのは3−Fだけだそうですが、それも伝統なのでしょうか(笑)大掃除の時に、名簿以外は消したと思いますが、確かにいろいろ壁に書いたような気がします・・・。あまりいいことではありませんが、こうやって残っているのを見ると、当時がよみがえってきますね。卒業生にとっては懐かしい思い出です(笑)先生方ごめんなさい(笑) オックスフォードやケンブリッジなどでは学生の落書きは壁ごと保管してあると聞いたことがあります。(本当かな?) |
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最近話題の?3Fの名簿について、ようやく撮影できました。(右) 噂通り、平成元年から10年までの卒業生の名簿がびっしり書かれていました。全て撮影してきたのですが、データ量の関係で「初代」の平成元年分と、直近のものを掲載します。(希望があれば別ページを設けて期間限定で全てをアップしますが…。) 因みに他の教室もチェックしたところ、このようなものがあるのは「3F」だけでした。また3Fでは「つるかめ」の落書きや、何かの計算式、連語の訳(カンニング用?)などが散見されました。 これらはいつまで残るのでしょう。でも10年続けば「伝統」ですね。 |
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48期の三浦 孝之さんから、3年F組の「名簿」について証言が寄せられました。
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半袖学生服(省エネルック?)を作ったことのある方、「その弐」以降をリクエストしたい方は小棚木までメールをお送り下さい。 |
セミナー関係の煙草話はよく聞きますね。そういえば旧校舎を解体するときにも教室の壁板の中にびっちり吸い殻があったと聞きました。私が入学当時、「煙草の吸い過ぎに注意しましょう」と書かれたポスターが張られており、とんでもない学校に入ってしまったと感じたものでした。セミナーのほか、水◯部、山◯部、等の部室などはよく煙がたっていたような気がします。よく未成年者の喫煙の害が言われますが、煙草を吸っていた先輩は「ヤニパワー」だといって受験戦争を乗り越えていました。 |
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43期の高橋 篤史さんから、これから歴史になるだろう話題が寄せられました。
伝統の恐ろしさを感じる反面、微妙に表現が変わっているところや、「今年は書かないと思った」といいつつも書いてしまう青春時代の苦悩が感じられ、何ごともこのようにしてズレが生じていき、最終的には全く別のものになってしまう(かもしれない)プロセスを垣間見たような気がします。 3年F組で卒業された方、その後の『鳳凰』をお持ちの方、補足をお待ちしています。 |
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33期の小林 功征さんから衝撃的な告白文が届きましたので、全文掲載致します。 実は鳳鳴応援団の看板を持ち帰ったのは私です。当時校舎新築の真っ只中でそのころ団室は体育館と講堂の間にブロックで作った部屋が二つありました。片方はJRC部だったかな。そして片方が団室でした。卒業を前に木製看板に「秋田県立大館鳳鳴高等学校応援団」とかかれたものがあったと思われます。忽然とその看板が なくなり私の部屋(秋田の実家)にいまだにあるのはなぜでしょう。ばかなやつです。うんうん。 100周年を目前に、懺悔とも思われる激白?を頂きました。鳳鳴記念館には「卒業生が持ち出した(がめた)コーナー」を作ったらどうでしょうか。(貴重なものが集まったりして…)その時は私(ミスターX)も出品させて頂きます。因みに秋田県で図書館蔵書数が多いのは、桂高校だと聞いたことがあります。鳳鳴は?勝手に持ち出したり、返さなかったりするので少ないそうです。家に学校の蔵書を蔵書の方、今さら返せないでしょうから、新刊を寄付するのもテかと思いますよ。皆様の懺悔もお待ちしております。 |
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当時80周年を迎えた鳳鳴は春季大会で初優勝しました。その応援のおかげで1学期の中間テストは9科目中7科目が赤点でしたが、、、、 その時の優勝投手は語る。 「春かづのさ80年かがってるでぇ、なづの甲子園さいぐのはもう80年かがるにきまってるべ」※ 引き続き、同上の小林さんからの複雑なメール。※長く郷里を離れた方のために訳。「春勝のに80年かかっているから、夏の甲子園に行くのはもう80年かかるに決まっているだろう!」頑張れ!鳳鳴野球部!! テストも頑張れ! ※この記事について野球部のOBから皆頑張っている中、ひどいではないか!というメールを頂きましたが、野球部を貶しているわけではなく、自虐的な?笑い話として紹介しています。母校の甲子園出場は卒業生の悲願です。応援しない同窓生などいないと思いますので、関係者の皆様には一層の奮起を期待します。(小棚木) |
| 現在の校舎の正面玄関のファサード(庇)の内側にネットが張られているのをご存じでしょうか。私が入学する前後の話しだと記憶していますが、毎年5月頃になると燕が飛来し営巣するため糞害が問題化し、燕の巣を撤去しようとした学校当局に生徒が抗議、結局ネットを張ることに…。バンカラといわれた鳳鳴生にも血が通っていたのですね。(^^) |