ここでは、記念誌には載らないであろう”裏”の話題を掲載します。
記事が多くなりましたので、古いものは新たに「裏門ライブラリー」を設け、移転しました。

更新:2006/12/6

オルゴール版校歌/村越 隆(鳳鳴25期)

25期(理数科3期)の村越さんから、以前送っていただいたオルゴール版校歌のデータを編曲・音色共にグレードアップしたものを送っていただきましたので、アップします。(その後MIDIデータ、au用着メロデータも追加)
また楽譜もいただきました。楽譜はこちら


校歌着メロ/小棚木 政之(鳳鳴38期)

35期の大井和博さんから、旧田代町サイトでダウンロードできた校歌の着メロのデータを送っていただきました。合併に伴って行き場の無くなったデータとのことですが、校歌の編曲を手掛けられた29期の佐藤信博さん製作のものです。
キャリアに応じて、またかねてから話題になっていた、1拍あるタイプと、無いタイプの2タイプをご用意しています。お好みに応じてダウンロードしてご利用ください。同期会・クラス会の校歌斉唱の際にBGMとしても使える!?

※携帯でお使いになるには、パソコンでダウンロードしたデータを携帯宛に転送して設定してください。パソコンで下記リンクをそのままクリックしても音声は鳴りません。

ドコモ用
dohoumeikankou.mld

(1拍無いタイプ、伝統版と名前を付けています)

dohoumeikouka.mld

(1拍あるタイプ)

au用
※auは機種によってmmfタイプとpmdタイプがあるらしいので、ダウンロードして鳴る方を使ってください。
auhoumeikankou.mmf

(1拍無い)

auhoumeikouka.mmf

(1拍ある)

auhoumeikankou.pmd

(1拍無い)

auhoumeikouka.pmd

(1拍ある)

ソフトバンク用
vohoumeikankou.mmf

(1拍無い)

vohoumeikouka.mmf

(1拍ある)


ドイツにも鳳鳴の名は轟く!?/小棚木 政之(鳳鳴38期)

母校と友好提携している、兵庫県立篠山鳳鳴高校OBの桑形広司さん(京都薬科大学助教授)からドイツ南西部・フライブルクの街で偶然見つけた「鳳鳴」の看板の画像を送っていただきましたのでご紹介いたします。

ドイツ・フライブルクの鳳鳴

中国の都市では街に入る門に「鳳鳴」と書かれた額があると聞きますが、中華料理店の名前にするような意味なのでしょうか。目出たい言葉というのは分かるのですが…。

このコーナーでは、あなたの周りにある「鳳鳴」を募集しています。そんなにあるものではないと思いますが…。

桑形先生ありがとうございました。




那須御用邸御用達 伝承献上菓子『鳳鳴』/小棚木 政之(鳳鳴38期)
鳳鳴会の会合で那須の御用邸近くのお菓子屋に「鳳鳴」というお菓子があると聞き掲示板で紹介したところ、29期の田村(多久)裕子さんから何と実物を送って頂きました。

母校のスクールカラーを彷佛させるえんじ色のパッケージに鳳凰、そして菊花紋を挟む「鳳鳴」の文字。これは久々のヒットです。製造販売しているのは、那須御用邸御用達の「扇屋総本店」さん。(栃木県那須町湯本200 TEL.0287-76-2735)説明は特に必要ないと思いますが、中の栞によると…「夜明けの朝もやを突き抜けた光が みどりの木立に差し込むころ 野鳥の声がしじまを飛ぶ …やがて大地が目ざめると ひときわ静寂な御用の森では、鶯が遅れた那須の季(とき)をかなでる みやびなその響きは 気高き森にまぼろしの鳳凰を彷佛とさせ 夢の郷へと誘われる −このありさまは御用の森の「鶯鳴(おうめい)」と呼ばれる 高貴・優雅で縁起の良い鳳凰にちなみ 菓名「鳳鳴」と名付けました (以下略)」とあります。

鶯か…と一瞬落胆しますが、これは正真正銘の「鳳鳴」です。格が違います。写真のようにお菓子そのものが「菊の御紋」なのですから、付属のナイフにある説明「…美しく切ってお召しあがりくださいませ」と言われても紋やマークにナイフを入れるというのはやや気が引けるのでした。

割ってみると中には栗が1個入っていますが、周りは和三盆とはいえそのままでは甘いので、やはりお茶菓子(しかも高級な抹茶など)として頂くのが良さそうです。

田村さん、本当にありがとうございました。なお、お店の前には「鳳鳴」と大書きした暖簾があるそうですからやはり行ってみたいですね。


すてすて節について/松下 明夫(鳳鳴26期)
伝説のステステ節について、非常にリアルな証言が届きましたのでご紹介します。

すてすて節について拝読いたしました。24期工藤真範先輩、26期辻美代子さんが書かれているとおりです。辻さんは3年生の時同級生でしたし(なつかしや)、工藤先輩は私達が1年生の時の3年生でラグビー部のキャプテンでし た。・・先輩!!お久しぶりでした。ラグビー部でお世話になりました松下です。お元気なご様子で何よりです。

鳳鳴祭の前夜祭で田村先輩と披露されたあのぐりぐりソング、我々の間では今なお語り継がれ、歌い継がれております。

「好きだってことはだねえ、なかなか言えないもんだよ、今日もまたまた言いそびれ、ひとり下宿に寂しく帰り、彼女の写真に顔うずめ、ハッ、つよーくつよく、つよーくつよく、グーリグリ、グーリグリ、グーリグリのグーリグリ、(グリグリ繰り返す)。はあーっ、禿げ山の禿げ鷹が、私を少しかじったかーら、ハシシ、ハシシ、ハシシをあげたーのーさー、オーッ」というものです。メロディーもありますがオリジナルなので聞くしかありません。

高校生の切ない恋心が見事に表されていると思いますが、「禿げ山の禿げ鷹」「ハシシ」が何を表すものか、関係各位のコメントをお待ちしております。また振り付き、歌付きのビデオを送っていただければ後世に残したいと思います。


甲子園出場校について/小棚木 政之(鳳鳴38期)

毎年この時期になると話題になる話ですが、群馬県のnomotoさんから以下のようなメールを頂きました。良かったような、悲しいような…。nomotoさん、メールありがとうございました。両校が一日も早く出場できるよう願っております。

私は群馬県立太田高等学校の昭和61年度応援団長だったものです。
大館鳳鳴高校も旧制中学から続く伝統ある進学校と存じております。

さて、このホームページの中に「創立100年でいまだ甲子園に出場していないのは、鳳鳴高校だけ」という趣旨の文章がありましたが、そんなことは全くありません。

私の母校、太田高校は明治30年(1897)に学校創立、明治33年(1900)に野球部創部と大変歴史のある学校ですが、旧制太田中学・太田高校を含め未だ甲子園に出場していません。群馬県内でも同時に学校を創立した富岡高校(旧制富岡中学)・藤岡高校(旧制藤岡中学)・沼田高校(旧制沼田中学)も未だ出場していません。このように旧制中学時代から100年近く経過した甲子園未出場は全国に50校以上あるはずです。(東北地方でも福島高校や安積高校・古川高校・角田高校も甲子園に出場していません)

今年の大館鳳鳴高校野球部は秋田県内でも力があるようですので、ぜひ悲願の甲子園出場を目指してがんばってください。太田高校もがんばります。


岐阜・白線流しの報道で思い出したこと/春日 一文(鳳鳴21期)

戦前の学制に基づく、旧制高校は一本の白線を帽子に着けていましたが、これは旧制一高に始まるものと言われ、その後全国の旧制高校が採用したものです。また旧制中学でも一高にあやかり、二本線の白線を着けだし、それが全国の旧制中学に広まったもので、大中は昭和元年に採用しております。なお戦後の学制改革では、新制中学が旧制中学の白線を全国的に採り入れたものです。因みに昭和元年に大中が制度として始めたものは、

1. 帽子に白線を着ける
2. スキーを正課に採用する(全国初)
3. 年長者に対し、挙手注目の礼をする

小生の在学中は、帽子着用が義務づけられていいましたが、その後着用しなくてもよしとなった由。

その後春日さんに詳細についてお伺いしたところ、私が思っていたバンカラ鳳鳴のイメージはごく一部のものであったことが判明しましたので、併せてご紹介します。

※「敬礼」とは号令で、それに従う所作が「挙手注目の礼」です。更に「最敬礼」とは、脱帽の上、腰を45度に前屈して表礼すること。

Q. 帽子を破ったり、靴墨を塗ったり、泥を掛けたりして「こなす」バンカラスタイルでしたでしょうか。

A. 帽子を破ったり、靴墨を塗ったりする者も極く少数おりましたが、泥を掛けたり予選会で汚物や腐敗したものを投げつける等の品性を疑う様な行為は断じてありませんでした。下駄履きは届け出すればOKでした。

鳳鳴生と言えば、中学生や他校の生徒も一目を置くべき存在で、決して人に後ろ指さされるようなことはしません。逆に選ばれて来た者としての自覚と周囲の羨望の下で、自他共に認めるエリートだったのです。(入学式の沖田学校長の式辞に曰く「君たちは選ればれてきた者であり、地域の模範とならねばならぬ。またそれに応えて精進する義務もあり、その自覚の上で勉学に励め!」と、言われた記憶が今でも鮮明に残っている。)

こうした校風は、鳳鳴に何十年もいる主達が、授業の合間に脱線と称して、事ある毎に在校生に伝えたものです。そして、ライバル秋中・秋高に負けじ、たたき込んだものでした。従って我々の当時は、大学入試も秋高に次ぐ存在で、横手高には質量とも勝っていました。

母校が質実共に復活することを願ってやみません。春日さん、ありがとうございました。(小棚木)

O君の想い出〜その弐/ミスターX(鳳鳴38期)

私達38期には伝説的なO君という男がいます。(彼の人格保護のため仮名とします)

まさか、と思ったのですが「その弐」を聞きたいというリクエストがありましたので、再びの登場です。
彼の話をすると段々下品になるので、ネットの品位を汚すな!とクリントンに怒られそうですが、知らない人だし、このページを見て楽しんでいる貴方も余程のフェッチでしょうから、こっそりお教えしましょう。

O君はとても気合いが入っています。彼は館工の生徒がつっぱり(既に死語ですね)よろしくガニマタで自転車を漕いでいた頃、何と三輪車で鳳鳴に来ていました。三輪車といっても子供が乗る奴じゃなく、かつておばさんが買物にいくときに乗っていたアレです。彼の所有物か盗品かは不明です。(彼はバス停などにあるコカ・コーラのベンチを〜結構重い〜盗んだ男ですから)

私とO君は同じ選択科目(一番簡単そうな「生物」だったと思う)を履修していましたが、お互い勉強が嫌いでした。でも私は遅刻したことなどなく、授業も聞かず窓の外を眺めていました。そこに堂々と三輪車に乗った「奴」がいました。私は一瞬我が目を疑いました。バンカラの残党やつっぱりなど傍目から見て格好の悪い人はいましたが、取りあえず格好を気にする年頃じゃないですか。そこに何の臆面もなく「奴」はやってきたのです。

事態はそれだけに留まらず、ボタ雪の降る日でも彼は自転車で登校しました。タイヤに雪が絡み付いてとても走れるものではありません。問題は「帰り」にあります。彼の家は鳳鳴がある台地の下にありました。つまり雪の坂道を下る訳です。

私は彼に問いました。「坂だと滑って危ないだろう、止まる時はどうすんだ!?」彼はためらうこともなく「決まってるべ。電柱さぶつかりながら降りでいぐのや!」とぶっ放し、ニヤっと笑みを浮かべました。その口元の前歯は欠けていました。そう、彼はR部のキャプテンだったのです。(続く)

続きが気になる貴方は小棚木までメールを今すぐ!。


懺悔/匿名(あまりにも罪深いので匿名にてお許しを)(鳳鳴22期)

当時私の大親友Hには憧れの先輩T沢さん(20期生)がいました。1968年3月の卒業式の日彼女はどうしてもT沢さんの写真が欲しいと言いましたが、カメラを向けるなどということはとてもできない時代でした。2人でどうしたものかと思いあぐねていましたが、あぐねていた場所が悪かったのですね。 保健室だったのです。そこには出席しなかった人たちへ渡す袋がいくつか並んでいました。その中の卒業アルバムのT沢さんの顔をカッターで丁寧に切り取ったのです。彼女はそれをロケットの中に入れお守りにしていました。そのアルバムをもらった人! 本当にごめんなさい。

…。卒業アルバムに穴が開いていた方、在庫があれば良品とお取り替え致します。


あの赤い石は…/石田 誠孝(鳳鳴21期)

校門前の「赤い石」についての謎がいとも簡単に解けてしまいました。結局つまらない「石」だったのですが、石田さんからのメールをご紹介します。

鳳鳴「裏門」で紹介されていましたあの「赤い石」ですが、実は私も愛犬の散歩の度に校門前を通りますので、前々から気になっていました。
いつぞやは足をあげてオシッコをしそうになったため、あわてて止めさせたことがありました。自分では八幡様と関係あると思っていましので、罰が当たったら・・・
 
たまたま今朝の散歩の時にご主人が庭の手入れをしていましたので聞いてみましたところ、狭い交差点のため時々クルマが小屋の角にぶつかるので注意を促すために石を置いて、赤く塗ったのだそうです。(^^;
 
真相を知ってしまうと・・・知らない方が良かった、と思うことがよくありますが、この話もその一つかもしれませんね。
それから・・・「ジジショップ」のアイスはご遠慮いたします。(笑)

人生こんなもんですね。トホホ。景品のアイス代が浮いてしまったので、黄色と黒のペンキでも買って密かにゼブラ模様にしておこうかな。(小)


校門前の謎の石/小棚木 政之(鳳鳴38期)

鳳鳴の正門前の民家の角にある、赤い石をご存じですか?(写真左下)
 
以前から気になっていたのですが、「交通安全の標識かな?」などと悠長なことを考えていましたが、大館近郊の集落の村はずれに魔除けの同じような石があります。
 
ただそういったものは魔除けであるが故、「村の外れ」(両端であることが多い)であり、鳳鳴の辺りが「外れ」かどうかは調べてみないと分かりません。創立された頃は林檎畑であったらしく、大館城の鬼門にたつ八幡神社が近くにあることを考えると、大館町の「外れ」だったのかもしれません。
あの石について何かご存じの方はメールをください。お礼として校門前のジジショップでアイスでも御馳走します。


元祖!?半ズボン学生服を発見!!/小棚木 政之(鳳鳴38期)

以前このコーナーで、我38期のO君の学生服の半ズボン事件の事が挙げられましたが、34期の加賀さんからお借りした卒業アルバムの中に、「すわっ!元祖か!?」と思しき写真を発見しました。その方のお名前は存じあげないものの、生徒会の写真のまん中に写っていることから、多分生徒会長であることが考えられます。プライバシーを尊重し、一応写真にモザイクを掛けましたが、詳しい事情をご存知の方はご連絡ください。但し、我らがO君は学生服ショップに特注して作ったのに対し、写真の先輩のは長さ、折り目からして、ただ捲っただけと思われます。O君の勇姿を偲ぶ写真か現物があればよいのですが、そのシルエットはバミューダパンツに近かったものと記憶しています。ですから「元祖か!?」と思ったのですが、やはりO君の半ズボンは永遠に不滅です!


体育祭のやぐら/小棚木 政之(鳳鳴38期)

最近の体育祭は長根山の大館市陸上競技場で行われるようになっているようですが、グランドで行われていた頃は、建築用の足場を使った応援用のやぐらがありました。我々38期(昭和61年卒業)の頃は、「建築基準法云々の理由?!」で、1段のものでしたが、それ以前は写真のように何と!4段でした。(写真=卒業アルバム提供:34期加賀さん/昭和56年の体育祭)意味のない商業用の幟は健在のようですが、やはり最上段に登って、エッサッサをやれ!と言われた日にゃ、泣きながらやるしかない、といった雰囲気です。でも何か楽しそうです。なお他のクラスの写真を見ると、やぐらの上にドラム缶が積まれ、応援合戦の激しさを物語っています。
 
最近はエッサッサも行われなくなったそうで、同窓生としては寂しい限りです。

オルゴール調校歌/村越 隆(鳳鳴25期)

25期の村越さんから、校歌を無理矢理(本人談)オルゴール調にしたものを送って頂きました。
クリックすれば(多分)聞けると思います。このほかMIDIファイルも送って頂きましたので、
興味のある方はご連絡を。

kouka8m.wav(611K)←クリック!

鳳鳴グッズ図解編/小棚木 政之(鳳鳴38期)

以前このコーナーで紹介した「鳳鳴グッズ」をビジュアルでご紹介します。まずピンバッチ。これは背広の襟のボタンホールやネクタイに飾ることのできるもので、落下防止の鎖まで付いています。大きさは高さ13mm。新しいものですが、由来は不明です。(多分職員用?)次は85周年記念の文鎮。高さ72mmの鉄の固まりです。昭和41年の卒業記念の七宝焼のバックルは桐箱入りで裏に「1966」とあります。制服のボタンについては、真鍮による一体整形のものが古くて、表面と裏が別々に作られたものは新しいものであるとご紹介しました。解るかな?

ピンバッチ

85周年記念文鎮

1966年卒業記念品のバックル

制服のボタン(表)
※少し”ヤキ”を入れてあります

制服のボタンの裏新旧



3Fの落書きを書いたのは私/和田 学(鳳鳴42期)

またまた、「3F」の卒業生から、告白が届きました。本当に困ったもんです。^^;
私は平成四年三月卒業した、三年F組の和田 学と申します。
3−Fの後ろの壁の卒業名簿平成四年度のものは私が書きました。その他にも3−F
にはいろいろな落書きがあったと思いますが、犯人はほとんど私と私のクラスメート
です。二年前の夏に久々に教室を見に行って自分たちの落書きの多さに愕然としてしまいました。
この件についてはいろいろと情報提供できると思いますので質問受け付けます。


平成3年の名簿を書いたのは私/松井 郁恵(鳳鳴43期)

あれを見てはっきりしました。あの平成3年卒分を書いたのは、まぎれもなく私です。当時、一番後ろの席を陣取っていた私は、友達と以前の名簿を発見して今年も、と書いたのでした。本当なら受験勉強で忙しい時期なのに、授業そっちのけで授業中に書いたのでした。それがあんなにはっきりのこっているなんて・・・。うーん、先生方や、後輩の皆さんには感謝するしかないですね(笑)

最後の大掃除の時にも、みんなで消さないで残そうと先生の目を盗みましたが・・・。名簿や落書きが残っているのは3−Fだけだそうですが、それも伝統なのでしょうか(笑)大掃除の時に、名簿以外は消したと思いますが、確かにいろいろ壁に書いたような気がします・・・。あまりいいことではありませんが、こうやって残っているのを見ると、当時がよみがえってきますね。卒業生にとっては懐かしい思い出です(笑)先生方ごめんなさい(笑)

オックスフォードやケンブリッジなどでは学生の落書きは壁ごと保管してあると聞いたことがあります。(本当かな?)


実写・3Fの名簿/小棚木 政之(38期)

最近話題の?3Fの名簿について、ようやく撮影できました。(右)

噂通り、平成元年から10年までの卒業生の名簿がびっしり書かれていました。全て撮影してきたのですが、データ量の関係で「初代」の平成元年分と、直近のものを掲載します。(希望があれば別ページを設けて期間限定で全てをアップしますが…。)

因みに他の教室もチェックしたところ、このようなものがあるのは「3F」だけでした。また3Fでは「つるかめ」の落書きや、何かの計算式、連語の訳(カンニング用?)などが散見されました。

これらはいつまで残るのでしょう。でも10年続けば「伝統」ですね。


1年生の時の思い出/一関 正孝(18期)

私が鳳鳴に入ったのは昭和38年4月です。この時の入学者数は427名(記憶に不確かなところがありますが)で、それまでで最大の入学者数(女性の数もそれまでの最大、70名ぐらいでしたかな。今はかなり多くなっていると聞いておりますが)でした。(昭和22年生まれ・第一次ベビーブームの人間ですから)
確か、この年に「鳳鳴創立65周年記念」式典が行われたと思います。悲しい思い出ではありますが、この年のくれから昭和39年の正月に山岳部の岩木山での遭難があり、私の知っている人を含めて、犠牲者が出ました。
校舎は今のものではなく、木造でした。現在も記憶に鮮明に残っております。校長は沖田さん、なかなか個性的な方でした。諸先生もユニークな方が多かったと思います。
かなりの数の先生を、あだ名で呼んでいました。当時は、まだバンカラのところが残っており、下駄履き禁止(下駄を学校に履いてきてはいけない)などといって登校時に先生がチェックをしたりしました。でも、アシダをわざと履いていったりしたものです。しかし、このころからバンカラは、だんだんにすたれていったと思います。
 
他で聞いた話ですと、この頃下駄履き禁止の他、鞄(布製)の紐を足まで延ばすことも禁止されたとか。
ただ、下駄履き禁止とはいっても靴を履いて登校すると先輩からガツンとやられたという逸話?も聞きました。下級生は受難の時代?だったのですね。(いつでも変わらない?)
昭和60年頃は、マッチョやニッテンと呼ばれた先生方(敬称略、本名非公開)がいましたが、皆さんの時代の名物先生のアダナとエピソードをお寄せ下さい

 実証・3年F組の名簿/三浦 孝之(鳳鳴48期)

12月27日に、鳳鳴に行ったのですが、補習期間中ということでたくさんの3年生が頑張っていました。
休み時間を利用して、3Fの教室に立ち寄って来たのですが、今もなお悪しき伝統(?)の名簿は残っていました。
平成元年3月(昭和63年度)から平成9年3月(平成8年度)までの名簿がすべて残っていました。
そして、平成10年3月と書かれた一画も発見しました。二人の名前が書かれており、これから平成9年度の名簿が書かれようとしているものと思われます。
しかし、現役の鳳鳴の先生方が目にするかもしれないこのページにこのような内容を堂々と書き込むというのはマズいのかな?(^^;;;;
  
先生方、関係者の皆様、そっとしておいて下さい。また平成10年3月卒業と書いた後輩諸君が無事卒業できることをお祈り致します。

検証・3年F組の名簿&謎の薬品/三浦 孝之(鳳鳴48期)

48期の三浦 孝之さんから、3年F組の「名簿」について証言が寄せられました。

私は3Gの出身ではありますが、地理の授業で3Fの教室を使っていました。その時に後ろの黒板の下の方に名簿らしき物があったのを見た記憶があります。特に気にしていなかったので、何期の物なのかは記憶に無いのですが、鉛筆で書かれていたのだけは覚えています。
 
あと、鳳鳴の化学室にあった薬品の話でも書くことにします。私は化学部に所属していたのですが、2年生のときに薬品庫の整理をしていたときのことです。薬品庫の奥から古い薬品のビンが出てきました。そのビンには「ムウニモンア酸蓚」という紙がはられていました。そう、右から読むんです。さらにその下には「東京府日本橋区…」と書かれていました。
社会の先生に聞いたところ、東京府は昭和18年に東京都に改めたということでその薬品は昭和18年以前のものであることが判明しました。写真に撮って残しておこうと思ったのですが、処分されてしまったのか、もう二度とそのビンを見ることはありませんでした。


O君の想い出〜その壱/ミスターX(鳳鳴38期)

私達38期には伝説的なO君という男がいます。(彼の人格保護のため仮名とします)(小棚木註:私ではありません)
彼の話をすると、一晩でも足りないくらいの伝説がありますが、百周年を記念して少しばかりご紹介しましょう。
先ずO君は多分鳳鳴100年の歴史の中で最初で最後であろう、「半ズボン」を履いてきた男なのです。正確にはわざわざ仕立ててもらった半ズボン(もちろん制服)を履いて学校に来たのです。彼はとても暑がりで毎日「暑い、暑い」を連発していました。そこで友人は「東京の小学生の制服は半ズボンだし、半ズボンにしたら?」と提案したのです。すぐさま彼は実行に移し、馴染みの学生服ショップに行きオーダーしました。
履いてきた当日は彼の周りには黒山の人だかり。
そしてまもなく、「O君、すぐ職員室まで来なさい!」と放送があり、歴史に残る半ズボンは数時間でオクラ入りしてしまったのです。O君の話はこんなものは序の口、子の口(ねのくち)です。リクエストがあれば「その弐」以降を投稿したいと思います。「その四」あたりからは公序良俗に反する可能性がありますが…。

半袖学生服(省エネルック?)を作ったことのある方、「その弐」以降をリクエストしたい方は小棚木までメールをお送り下さい。


セミナーハウスのトイレの話/松山 茂樹(鳳鳴43期)

このホームページでセミナーハウスが取り壊しになったの知りました。おんぼろセミナーハウスでしたが、部活(サッカー部)の合宿をした思い出などがあり、ちょっと寂しいです。ところで、セミナーハウスといえば、トイレが一服できる憩いの場だったらしいですね(私はしたことないですが)。その真偽を確かめるべく、サッカー部の合宿(当時高3)の時にトイレに侵入しました。言っておきますが、男子トイレです。トイレの個室(大便をする方)のドアの枠組の上部は、深さ2cm位のレールになっているのですが、そこには、おびただしい数のタバコの吸い殻がありました。当時、すでにこぼれ落ちそうな状態だったような気がします。何年かかって築きあげられたものかは知るよしもなかったのですが、塵も積もれば山となるとはこのことだと感心しました。そこは、かなり背の高い人か、枠組みにぶら下がって懸垂みたいなことをしない限り見えないので、先生にも発見されなかったんでしょう(というか、よく火事にならなかったな、という感じです)。で、思ったわけです。当然、取り壊しの時は、その無数の吸い殻達は、人目にさらされたんでしょうね… その場にいた人は、ものすごい光景を目の当たりにしたことでしょう。それとも、取り壊し前に吸い殻は撤去されていたのだろうか?いずれにしても気になります。
P.S. ちなみにこのトイレの個室の鍵はかかりが悪く、合宿中、最も恥ずかしい姿をチームメイトに見られました(このときは偶然見られた)。その直後、別のチームメイトが、私が見られたという事実を知らぬまま、私とすれ違いでトイレに入りました。無防備の彼は、悪い友達数人に、私同様最も恥ずかしい姿を見られてしまいました。他にも見られた人いませんか?

セミナー関係の煙草話はよく聞きますね。そういえば旧校舎を解体するときにも教室の壁板の中にびっちり吸い殻があったと聞きました。私が入学当時、「煙草の吸い過ぎに注意しましょう」と書かれたポスターが張られており、とんでもない学校に入ってしまったと感じたものでした。セミナーのほか、水◯部、山◯部、等の部室などはよく煙がたっていたような気がします。よく未成年者の喫煙の害が言われますが、煙草を吸っていた先輩は「ヤニパワー」だといって受験戦争を乗り越えていました。


3年F組の名簿/高橋 篤史(鳳鳴43期)

43期の高橋 篤史さんから、これから歴史になるだろう話題が寄せられました。

3年F組の後ろの黒板の下の壁に、歴代の3年F組の名簿があります。紙に書いて貼ってあるものではなく、白い壁に直に鉛筆で書かれたものです。普通は年度末の大掃除などで(特に卒業前は)念入りに落書きなどは消されてしまうものですが、その部分だけ残してきれいに保管(?)されています。私が卒業する時点で2年分ぐらい(おそらく第40or41期生の方々が最初)の名簿を発見し、「じゃぁ今年も」ってことで書き足しました。
どうやらその後もこの伝統(?)は受け継がれたらしく、卒業後に何度か足を運ぶたびに年々増えていたように思います。私が最後に確認したのは2・3年前で、6・7年分あったような気がしますが、果たして今でも受け継がれ、残っているのでしょうか?F組出身で、御存知の方、またその関係者の方からの情報を聞いてみたいと思います。
しかし、大掃除にも負けずに残っているのは、そのときの担任の裁量か、もしくはそれが鳳鳴のよさなのでしょうか。どちらにしても、良き思い出として大切にしていって欲しいと思います。
良き伝統かどうかは別にして、そういえば生徒会誌『鳳凰』のクラブ紹介で、柔道部の書き出しが毎年同じでしたが、最近も続いているのでしょうか?私(小棚木)が在学中の3年間の『鳳凰』第99号から101号を見ますと次のように書かれています。
 
★第99号
「クラブの事を書くとなると、ぼくは真面目になってしまう。と四年間連続同じ出だしは仕方あるまい。(以下略)
★第100号
「僕は柔道のこととなると真剣になってしまう。この文句ではじまる紹介も、五年目になる。これも柔道部の伝統であるからいたしかたあるまい。(以下略)
★第101号
「僕は柔道のことになると真剣になってしまう。この文句ではじめる紹介も、六年目になる。これも柔道部の伝統であるからいたしかたあるまい。(今年は書かないと思ったが)(以下略)

伝統の恐ろしさを感じる反面、微妙に表現が変わっているところや、「今年は書かないと思った」といいつつも書いてしまう青春時代の苦悩が感じられ、何ごともこのようにしてズレが生じていき、最終的には全く別のものになってしまう(かもしれない)プロセスを垣間見たような気がします。

3年F組で卒業された方、その後の『鳳凰』をお持ちの方、補足をお待ちしています。


こんなことしてよかったのか?/小林 功征(鳳鳴33期)

33期の小林 功征さんから衝撃的な告白文が届きましたので、全文掲載致します。

実は鳳鳴応援団の看板を持ち帰ったのは私です。当時校舎新築の真っ只中でそのころ団室は体育館と講堂の間にブロックで作った部屋が二つありました。片方はJRC部だったかな。そして片方が団室でした。卒業を前に木製看板に「秋田県立大館鳳鳴高等学校応援団」とかかれたものがあったと思われます。忽然とその看板が なくなり私の部屋(秋田の実家)にいまだにあるのはなぜでしょう。ばかなやつです。うんうん。

100周年を目前に、懺悔とも思われる激白?を頂きました。鳳鳴記念館には「卒業生が持ち出した(がめた)コーナー」を作ったらどうでしょうか。(貴重なものが集まったりして…)その時は私(ミスターX)も出品させて頂きます。因みに秋田県で図書館蔵書数が多いのは、桂高校だと聞いたことがあります。鳳鳴は?勝手に持ち出したり、返さなかったりするので少ないそうです。家に学校の蔵書を蔵書の方、今さら返せないでしょうから、新刊を寄付するのもテかと思いますよ。皆様の懺悔もお待ちしております。


甲子園出場は160年かかる?!/小林 功征(鳳鳴33期)

当時80周年を迎えた鳳鳴は春季大会で初優勝しました。その応援のおかげで1学期の中間テストは9科目中7科目が赤点でしたが、、、、

その時の優勝投手は語る。

「春かづのさ80年かがってるでぇ、なづの甲子園さいぐのはもう80年かがるにきまってるべ」

引き続き、同上の小林さんからの複雑なメール。※長く郷里を離れた方のために訳。「春勝のに80年かかっているから、夏の甲子園に行くのはもう80年かかるに決まっているだろう!」頑張れ!鳳鳴野球部!! テストも頑張れ!

※この記事について野球部のOBから皆頑張っている中、ひどいではないか!というメールを頂きましたが、野球部を貶しているわけではなく、自虐的な?笑い話として紹介しています。母校の甲子園出場は卒業生の悲願です。応援しない同窓生などいないと思いますので、関係者の皆様には一層の奮起を期待します。(小棚木)


燕の巣/小棚木 政之(鳳鳴38期)

現在の校舎の正面玄関のファサード(庇)の内側にネットが張られているのをご存じでしょうか。私が入学する前後の話しだと記憶していますが、毎年5月頃になると燕が飛来し営巣するため糞害が問題化し、燕の巣を撤去しようとした学校当局に生徒が抗議、結局ネットを張ることに…。バンカラといわれた鳳鳴生にも血が通っていたのですね。(^^)